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2016年2月28日日曜日

ロシアでボリス・ネムツォフ追悼デモに数万人。どんな人物だったのか

ボリス・ネムツォフ


反プーチンの先頭に立ったボリス・ネムツォフ氏殺害から1年



反政府デモが禁止されているロシアで、野党の指導者として活動していたボリス・ネムツォフ氏の追悼デモが許可されたというのは、実に異例なことだとわかります。






チェチェン人5人をネムツォフ氏殺害の容疑で逮捕したものの、事件の詳細が解明されていないことが支持者を含め、多くの市民が不信感を募らせている要因にもなっているために今回の追悼デモはロシア政府も容認するしかなかったようです。

しかし、追悼デモに数万人もの人が集まったのはロシア政府への反感だけではなく、ボリス・ネムツォフという人物が幅広い層に支持されていた証しとも言えます。


実は日本とも関わりがあったネムツォフ氏とはいかなる人物だったのでしょうか?





生まれは冬期オリンピックが開かれたソチ



ボリス・ネムツォフ氏は1959年10月9日に生まれました。土地は冬期オリンピックが開かれたグラスノダール地方のソチです。もちろんこの当時はまだソビエト連邦時代。


両親はユダヤ人でしたが祖母が母に内緒でロシア正教の洗礼を受けさせたので、彼自身はクリスチャンでした。


その後、ロシア第4の都市ノヴゴロドに引っ越し、大学はゴーリキー大学の電波物理学部に入学。彼のおじさんがゴーリキー大学で働いていました。大学は優等学位で卒業、1997年にモスクワに移り、ゴーリキー電波物理学研究所で働きます。






原発建設反対運動への参加


優秀な学者であったネムツォフ氏が政治の道へと進むポイントとなったのが1988年のゴーリキーでの原発建設への反対運動でした。これは2年前に起きたチェルノブイリ原発事故に影響を受けてのことだと言われています。


母親の強い反対があったようですが、ネムツォフ氏は運動の中心的な存在になります。すでにカリスマ的な求心力をこのとき持っていたんですね。





政治の道に


1989年に人民代議員大会に立候補しますが、落選してしまいます。しかし、翌年にロシア共和国の人民代議員に当選します。そして議会では「民主ロシア」に属しました。この時期に、エリツィン氏とつながりができたと考えられています。


そして1991年8月、クーデターによりソヴィエト連邦は崩壊、大統領となったエリツィン氏を支持し、後にロシア連邦政府庁舎になる建物の防御を受け持ちます。エリツィン氏が戦車の上に立った有名なシーンもここで、そのときネムツォフ氏も一緒に戦車に上ったのでした。






そうした貢献の結果、新しい政府で彼はニジニ・ノヴゴロド州の初代行政長官に任命されます。ニジニ・ノヴゴロド州はネムツォフ氏の指導の下、自由市場経済の町に変貌を遂げますが、一方で彼の手法が独裁的だと感じる人もいました。


1993年に上院連邦会議代議員に当選、1996年にも再選します。





第一副首相に就任


1997年、連邦政府の第一副首相に就任します。このとき住宅建設と独占禁止の政策をエリツィン大統領から任されます。その後、燃料・エネルギー大臣も兼任します。


この時期の日本との北方領土問題についてエリツィン大統領に助言したことから、日本への4島返還が実現しなかったとも言われています。


しかし、1997年12月26日に「無責任で政治家としての資質に乏しい」と非難され、第一副首相の解任を求められます。エリツィン大統領もこれに同意。翌98年に解任されます。




リベラル派の代表に


1999年に前首相のセルゲイ・キリエンコ氏たちとともに、自由経済を政策に掲げる「右派連合」を発足。下院国家会議選挙で当選し、下院副議長に任命されます。


2001年にキリエンコ氏が代表を辞任し、ネムツォフ氏は後任の座につきますが、新興のリベラル勢力「ヤブロコ」に支持層を奪われ、右派連合の規模は縮小したのでした。


2003年の下院国家会議選挙では議席確保に必要な5%の得票率に達しなかったため、ネムツォフ氏はその責任を取って代表を辞任します。


このころロシアの指導者はエリツィン氏からプーチン氏へと代替わりをしています。



政治の世界を離れ、経済界へ


「政治のことをわすれたい」


そう漏らしたネムツォフは石油コンツェルンであるネフチノイ銀行の取締役というまったく新しい世界に飛び込みます。


が、わずか1年もしないうちに辞めてしまいます。



ウクライナのオレンジ革命


再び政治の世界に戻ったネムツォフ氏でしたが、ロシア国内での活動にとどまらず、隣国ウクライナにまで足を延ばします。


2004年のウクライナは「オレンジ革命」と後に呼ばれる反政府運動が盛り上がっていました。ネムツォフ氏もこの運動に参加します。




ボリス・ネムツォフ


そしてこのとき彼はヴィクトル・ユシチェンコ氏を支持し、ユシチェンコ氏はオレンジ革命後に大統領に就任します。ユシチェンコ氏の在任中、ネムツォフは経済顧問として彼を支えたのでした。




二転三転する政治人生



2007年、右派連合の支持をバックにネムツォフ氏はロシア大統領の候補者に推されます。しかし候補者を目指す他の政治家との軋轢(あつれき)が生まれたり、可能性がほとんどなかったことから候補者の立候補を諦め、ミハイル・カシヤノフ氏にその席を譲ります。



2008年には右派連合が解散を発表。そしてロシア民主党や市民勢力と合流し、「右派活動」が誕生しています。


右派活動への参加を拒否したネムツォフ氏は、2009年に生まれ故郷であるソチの市長選挙に立候補しました。




反プーチンの指導者に



2010年3月、初めてネムツォフは反プーチンを鮮明に打ち出した活動を開始します。翌年にはプーチン首相に対して情報開示とアセスメントを要求しますが、これは拒否されます。


2011年にモスクワで結成されたリベラル系野党に参加するも政党として認められませんでした。逮捕と拘束を繰り返し受けながらも反政府運動を続けます。




2015年2月27日


4人の子供がいたネムツォフ氏でしたが、すでに何年も前に奥さんのライサとは関係が終息していて、このときもウクライナ人のアンナ・ドリツカヤさんとのデートの最中でした。


クレムリン近郊の橋を2人で渡っているところを車から4発の銃弾を背中に受け、殺害されたのでした。





その後、チェチェン共和国在住の元警官ら5人が犯人として逮捕されました。しかしイギリスの首相のキャメロンやドイツ首相のメルケルからも事件の真相を徹底的に捜査するよう要請もありながら、真相は明らかにはならなまいまま幕を閉じ、1年が経ったのでした。


反プーチンの急先鋒であっただけに、今日の追悼デモの参加者もネムツォフ氏殺害はプーチン大統領による「暗殺」だと考えている人も多かったようですが、事実は闇の中となってしまうのでしょうか。






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